2011年 03月 21日
人間と自然あるいは地球、そして原発事故という人災 |
近くの川べりの桜は今年も桃色のあでやかな花を咲かせている。
この川も1993年の集中豪雨のときには河川の水が溢れだし、鹿児島では数十名の命が奪われるという大災害となった。その雨の強さは100年に1度の大雨と言われたものである。
今回、東日本での巨大地震と津波により、阪神大震災の記録を大きく超える被害が発生した。
3月11日(金)のTV映像を見て、あまりにすさまじい自然の猛威に言葉を失った。
その後のニュースを毎日観ながら、私自身もかつて訪ねたことのある三陸沖が津波によってずたずたになってしまう光景を見て、これも言葉がない。
今、行方不明者の救援作業も続けれらており、また何とか避難できた被災者の方々の厳しい避難所生活が報じられている。
自然の脅威にあらためて感じ入る。我々はたまたま地球に居させてもらっているだけの存在であることを強烈に思い知らされる。
避難生活を送っている人と比べてのうのうと日常の生活を送っている私には、何も言えることはないのだが、辺見庸氏が新聞記事で言っているように、自然への畏れをあらためて想うのである。
しかし、自然の脅威はそれなりに理解できるものだと思うが、今回はそれに原発事故による災害が加わった。
この間の原発事故への政府・東電の対応は目をおおうばかりである。
こんな人たちが、こんなにも危険な原発を作っていたのか。
広範囲に、しかも長期間にわたって甚大な影響をもたらす原発の危険性(地震、津波への対策が不十分なことを含めて)は市民団体や心ある科学者たちからたびたび指摘されてきたことであるが、それらの指摘に目をつぶって、あるいは無視して、これまで、さらにこれからも推進しようとしてきた人たちの責任はあまりにも大きい。まさしく人災である。
自然災害は、それに対応する社会的対応の責任がある程度は問われようが、自然の不条理としてあきらめざるを得ない面もある。しかし、原発事故による災害は、これは想定外の天災などではなく、明らかに人災だ。人間がまだコントロールできないものを早まって社会に存在させた結果である。
被災を受けた方々が少しでも早く普通の生活に戻れることを祈りながら、今回の原発事故の責任は厳しく追及されなくてはならないと思う。
by mititosi49
| 2011-03-21 20:47
| 甲突川(鹿児島の川)
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